日記

日記

10月16日 日記

 めでたいことに多様性の社会のようで、ことあるごとにそれはあなた次第であると大きくまとめて投げ飛ばされる次第であります。これは非常に嬉し恥ずかしな事態でありまして、大体を多様性で片付けられるというのはとても喜ばしいことであります。とりあえずスマホを持って出かければ道にも迷わないし、支払いにも困らないというものに通じるものがございます。

 

 ここからLGBTとそれに付随する侮蔑に話題はそれていくわけであります。「LGBTを擁護する発言をしたということは、お前もLGBTなんだろ!」という暴論の話でございます。この程度の暴論が成り立つのは小学生までだと思っておりましたが、以外にもいい歳こいた大人もお使いになられるということで、非常に驚いております。その年になるまでだれにも指摘されずに生きているという事実に恐れおののくと同時に、こんな人間がのうのうと生きている世界の、多様性に対するあまりにも寛大な処置に涙を流さずにはいられないわけであります。

 

 このような傾向は声が大きな人間にありがちだと思っておるのですが、わたくしの友人が的確な理由付けをしてくださいました。声がでかいということはそれだけで、近づく人を制限できる。君子危うきに近寄らずとはまさにこのことで、賢明なかたはそもそもそのような人間にはかかわろうとしない。ここでいう賢明な方とは件の人間の間違いを指摘することをいとわない方のことであり、そのような方々なしではこの世の中に道徳は存在しえないわけであります。結果として声がでかい人間の周りには、それをいとわない、不快に思わない方のみが集まるということになります。声がでかい人間は声がでかいままで、欠点を欠点と理解しないまま欠点が美点となったまま生きていくわけであります。

 

 これまでの人生の中で声がでかい人間と深くかかわっていなかったことは非常に喜ぶべきことであります。しかし、そのために、声がでかい人間とかかわることに対する耐性がなかった。これは嘆くべきことであります。現状、逃れられない濃厚接触の中で、声がでかい人間の声が大きくなっていった経緯についての理解を深めているわけですが、知れば知るほど吐き気がする。もしくは反吐が出る。どちらでもいい。とにかくゲロ。声がでかい人間に良心はなく、そこにはただ一つだけの「正しい」自我のみがある。ここまで単調な人間性には驚かざるを得ませんでした。どの全ての事象に対しても選択肢はなく、自らの利益としょうもない矜持を保つという行動しかない。そのためには他者の犠牲もいとわない。これは素晴らしい。あまりにも多様性が認められすぎている。多様性を認められた人間が他者の多様性を侵害している。これほどまでに矛盾していることはこの世には存在していなかった。唯一、矛盾の語源をのぞいては。

 

 とにかく、私は、私の信じる全ての正しさを遂行する権利がある。その正しさは主観的であり、時に客観的な痛みを取り込んで変容していく。客観的な痛みを無視した正しさは独善的であり、多様性はこれを認めてはならない。多様性という言葉はこのことと矛盾しない。多様性という言葉に曖昧で複数の定義が存在できないように、多様性は守るべきただ一つのことをのぞいてその多様性を失いながら多様性を保護していく。多様性が保護するのはそれぞれが持っている文化をもとにした考えである。

 

 文化の英訳であるcultureがcultivateを語源として持っていることはよく知られていることである。他者の開墾した土地は他者に権利がある。墾田永年私財法とかを想像してもらえれば雑な理解は可能だろう。それでいい。私もそれ以上は知らない。とにかく、多様性が保護するのは法にのっとって開墾された土地であり、他者が他者の土地を侵害することはそれによって強大に拒まれる。

 

くたばれ(フマキラーのCM)

 明日の天気はところにより曇り、あなたの気分次第で傘の所属は家、もしくはあなたになります。それいがいは特に言論の自由を声高に宣言することは必要のない一日になることでしょう。あなたが

 

ホワイトボードに映る自分の姿に心臓が止まりそうになりました。

 

あなたが他者存在である限り、あなたは尊重されます。ただし、あなたが他者存在であることを捨てて何者かと同一のものに変容しようとする場合はこの限りではない。同一個体に二つ以上の意思は宿らせてはいけない。墾田永年私財法以外にも法律はある。ラッキーアイテムは自我。失わないようにしてくださいね。失ってしまった場合の損失は片手では数えきれないものになります。くれぐれも落ちているピザに気を取られないように。