日記

日記

0426

Twitterを「りりちゃん」でパブサしてたら「4月生まれは傲慢だから嫌い」ってツイートがあった。今もう一度見にいったら消えていた。消したのかもしれないし、鍵垢にしたのかもしれないし、どうでもいい。とにかく、このツイートが好きだ。

 

「4月生まれは傲慢」それはA型が几帳面でさそり座が情熱的であると言うこととなんら変わりはない。全くもって根拠はないし、たった一人が当てはまったというだけで全体がそうであるわけではない。だから、このツイートがその部分で止まっていたならばいつも通りのTwitterとしてスルーしていただろう。しかし、当のツイートはその部分でとまらず「だから嫌い」と続けている。ただ単に嫌うだけでなく傲慢だからと理由をつけて嫌う。そして傲慢だから嫌うのではなく、4月生まれだからとより嫌う相手個人を指すように嫌っている。4月生まれ全体に対しての嫌悪のように見えるにも関わらず、実のところ特定個人を嫌っているように感じられるのである。この見た目と本質のズレが魅力的なツイートにしているのだろうと思う。

 

また、嫌うという行為は多くのエネルギーを消費するため、嫌悪が現れているツイートにはそれだけのエネルギーを感じる。本来なら嫌う相手に対して放出されるはずだったエネルギーが、いく当てのない怒りとしてTwitter上に放出される。膨大なエネルギーを持った物が暗闇の中を漂っている状況である。いわばそれは太陽である。太陽に魅力を感じて何が悪い。

0425

それが詐欺であったとしてもりりちゃんが人の心を魅了したことが事実である以上、彼女が獄中で書き続けている日記に何か惹かれるものを感じることは至極当たり前だと思う。だから、それに対して「お前も”頂かれ”ちまったのかぁ??」などと揶揄することは無粋に思える。一度読んでみればいい。何か魅力的なものがあることはすぐわかるだろう。わからないのならそれはそれで黙っていてほしい。

 

4月20日の日記に

普通に生きてるだけ、私なりに生きてるだけ、それがあなた達には狂気とうつっただけ.

とある。

 

この世界はありとあらゆる発言で満たされているが、同じ発言であってもその背景によって重みが変わるということがよく起こる。上記の文がまさにそれだと思う。知っているのがニュースで報道されているだけの断片的な彼女の人生だけだとしても、この文章の重みは相当なものである。

 

先日NHKルワンダ虐殺のドキュメンタリーをやっていた。ツチ族の虐殺を扇動したと言われる千の丘ラジオでアナウンサーをしていた男性はこう語った
「放送とはどんなに間違ったものでも必ず大衆に影響する。千の丘ラジオは武器だった。弾ではなく言葉で人々を撃ち殺したんだ」

 

TokyoStickers.

はじめに

公共物にステッカーを貼ることは犯罪です。そこんとこよろしく。

 

 

 

東京風紀委員会 *1

渋谷、原宿、秋葉原など人が集まるところには大体存在しているステッカー。「ダメよ。ゼッタイ」の文字と共にこちらを指差す少女の姿はどこか涼宮ハルヒを彷彿とさせる。

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他にも目元が大きく描かれているバージョンが存在する。こちらはおそらく東京都の「動く防犯の眼」をパロディしたものだろう。

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コロナ禍には、マスクをつけたタイプも貼られていた。

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縦5連東京風紀委員会f:id:HectwrongPiness:20230307173459j:image

 

LUNARR VISION*4

可愛らしい水色髪の少女が描かれたステッカー。東京風紀委員会のそばに貼られることが多く、東京風紀委員会側もLUNARRを認知していると思われる。東京風紀委員会があれば、LUNARRもある。逆また然りといった具合だ。

全身像のステッカーが基本ではあるが、顔だけのものも存在する。インスタを見るにニューヨークにも貼られているようだ。

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WACKOZAKI*5

わこ崎。白黒の線で美少女を描いている。かなりバリエーションが豊かであるが、ステッカーの素材が風雨に弱いようで、綺麗な状態で残っているものは少ない。同人誌の購入特典や、不定期のグッズ販売で得ることができるようだ。

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塊4わこ崎f:id:HectwrongPiness:20230307173349j:image

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人間マン*6

下北沢と新宿で生息が確認されたものの、数は上記3種に比べてかなり少ない。ヒトデのような見た目と、「人間マン」というかなり気の抜けた名称がクセになる面白さを孕んでいる。全て同じデザインのようにも見えたが、最低でも2種類は存在しており、カラーバリエーションもかなり豊富だ。

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横3連人間マン
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逆位置縦2連人間マン
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猫糞を決め込む*7

猫の頭にうんこが乗ったデザインのステッカー。読み方は「ねこばばを決め込む」。添えられた一言にやわらかい面白さがある。東京だけでなく、新潟駅前でも観測された。

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狂気ノイローゼスペシャ*8

動物の顔のステッカー。一つ目だったり三つ目だったりと目の数はまちまちだで、種類は多いが同じ作風のためなんとなくわかる。

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10月21日 日記

 ぼろぼろの文法って意図的にやってるからいいのであって、基本ができてないだけの壊れた文法って嫌。

 日本語の罵倒が少ないって話だったから考えてみたけど、まあ確かに少ないような気がする。見栄はって組み合わせ次第だよって言ったけど、まあ少ないわな。「ごみカス、死ねーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」くらいが限界ですわ。カスって語源をたどれば「上澄みを取り除いた沈殿部分」なので、まあまあきつい罵倒ですわ。腹いて。

 

 「うすぼんやり」ってあんまり使わないくせにいろんな人が細かく使ってるから結局印象に残ってる。うすぼんやりとした将来への不安とか。将来への不安なんか、はっきりさせとこうな。腹いて。

 

 そういえばと思って前に聞いたオールナイトニッポンを聞きなおしてみたけど、どうにも面白くない。夕方に聞いたからっていうのもあるだろうけど、それを加味してもかなりうすぼんやりとした味がした。そもそもこんな感じだったっけってのもあるし、最初に聞いたのが冬だったから、寒さが足りなかったのかもしれない。足りない寒さをマッチ売りの少女が売ってるらしい。マッチの火ごときでは温かくなれない。むしろ寒くなる。ここで人の心の冷たさとか言えばそれっぽくなる。それっぽくなっても面白くない。そんなうすぼんやりした面白さ。「寒さ売ります」量り売りだろうか。一立方メートルの気温を一度下げます。500円。高いかもしれない。ちゃんと一立方メートルの容器を持ってかないとすぐにあったまるから意味ないだろうな。エアコンを知らないバカなのか?そうかエアコンもない時代か。じき夏が来る。夏が来たらどうせまた令和ちゃん五年目なのにまだ温度調節できないの?ってツイートがバズる。そして毎年の恒例行事とか言ってそれのスクショを貼っただけのツイートがまたバズる。@Hell_twitter_Maruk0によろしく。

10月18日 日記

 「また一年短かったね」とか「〇〇ヶ月ってあっという間だから」とかいうあれを好むことはできない。私は全くそうは思わないし、そう思ってるから短いんだろと思ってしまうから。でも、「秋が短くなっている」はわかる。人間たちの秋に対して求める温かさが変化してきている可能性はもちろんあるが、それにしても秋の日数は短すぎる。これはわかる。

 

 教訓を残すということこれは時に愚かに映り、自らのあまりの脆弱さに消えてしまいそうになる。過去を振り返ることはあまりにも痛みを伴う。ましてや自分のためではなく、まだ見ぬ他者のためとなればなおさらであろう。この世に残っている教訓はそれをいとわなかった人たちの勇気による。その勇気は誰かをまた勇気づけるだろうか?勇気は感染するに値するだけの力をその内部に保持しているのだろうか?どうでもいいや。

 

 日本語がわからなすぎて日本語を学習中の外国人に日本語を教えられた。日本語を英語で教えられた。何だったんだろう。自分の知らないルールが平然とまかり通っているような感覚だった。少し違う。意識していなかった、不文律として自らの内部に存在していた、文法としての日本語を明るみに出されただけだと思う。説明されればされるほどわからない、理解しようとすればするほどわからない。どうにも救いようのない、コールタールに嵌ってしまったサーベルタイガーどものように。もちろん。母語話者であることは文法を論理的に説明できる能力を必要としない。最低限教師たちはできていなければならない。たまに文法の崩壊を見せつけてくる教師集団もいるが、あれは何なんだろう。教師という存在自体が文法から外れている気もするが気のせいであることを心から願う。アウトローによる教育は暴力の時代だけでいい。すぐに来るだろうが。

 

 別途添付したファイルを参照してください。添付されていない場合は、その旨をファイルとして添付して再度メールをお送りください。こちら側で正当性を確認し次第、再度添付して送信いたします。正当性が認められない場合、しかるべき法的手段を用いて社会的地位の失墜を目的とした終わりのない戦いをここに宣言いたします。

 

ニヒリズムは多様性との食い合わせが悪い。

10月17日 日記

 本屋のエスカレーターで聞いた「にじゅういつか」という言葉が忘れられない。聞こえてきた文脈といい方からして「二十五日」のことなのは間違いない。本来ならその読み方に対して日本語の母語話者として違和感を覚えなければならない。しかし、耳馴染みの良い気持ちの良い言葉だと思ってしまった。何なら「にじゅうごにち」の方に違和感を覚えているような気もする。たぶん、それはおそらく、「ご」という濁音のせいだろうとは思う。いくら鼻濁音としてごまかそうとしてもそれは濁っていることに変わりがない。カ行の濁音は汚れである。ゴミという言葉に濁音が使われているのはそのためだ。そういえばごみ捨てるの忘れてたな。

10月16日 日記

 めでたいことに多様性の社会のようで、ことあるごとにそれはあなた次第であると大きくまとめて投げ飛ばされる次第であります。これは非常に嬉し恥ずかしな事態でありまして、大体を多様性で片付けられるというのはとても喜ばしいことであります。とりあえずスマホを持って出かければ道にも迷わないし、支払いにも困らないというものに通じるものがございます。

 

 ここからLGBTとそれに付随する侮蔑に話題はそれていくわけであります。「LGBTを擁護する発言をしたということは、お前もLGBTなんだろ!」という暴論の話でございます。この程度の暴論が成り立つのは小学生までだと思っておりましたが、以外にもいい歳こいた大人もお使いになられるということで、非常に驚いております。その年になるまでだれにも指摘されずに生きているという事実に恐れおののくと同時に、こんな人間がのうのうと生きている世界の、多様性に対するあまりにも寛大な処置に涙を流さずにはいられないわけであります。

 

 このような傾向は声が大きな人間にありがちだと思っておるのですが、わたくしの友人が的確な理由付けをしてくださいました。声がでかいということはそれだけで、近づく人を制限できる。君子危うきに近寄らずとはまさにこのことで、賢明なかたはそもそもそのような人間にはかかわろうとしない。ここでいう賢明な方とは件の人間の間違いを指摘することをいとわない方のことであり、そのような方々なしではこの世の中に道徳は存在しえないわけであります。結果として声がでかい人間の周りには、それをいとわない、不快に思わない方のみが集まるということになります。声がでかい人間は声がでかいままで、欠点を欠点と理解しないまま欠点が美点となったまま生きていくわけであります。

 

 これまでの人生の中で声がでかい人間と深くかかわっていなかったことは非常に喜ぶべきことであります。しかし、そのために、声がでかい人間とかかわることに対する耐性がなかった。これは嘆くべきことであります。現状、逃れられない濃厚接触の中で、声がでかい人間の声が大きくなっていった経緯についての理解を深めているわけですが、知れば知るほど吐き気がする。もしくは反吐が出る。どちらでもいい。とにかくゲロ。声がでかい人間に良心はなく、そこにはただ一つだけの「正しい」自我のみがある。ここまで単調な人間性には驚かざるを得ませんでした。どの全ての事象に対しても選択肢はなく、自らの利益としょうもない矜持を保つという行動しかない。そのためには他者の犠牲もいとわない。これは素晴らしい。あまりにも多様性が認められすぎている。多様性を認められた人間が他者の多様性を侵害している。これほどまでに矛盾していることはこの世には存在していなかった。唯一、矛盾の語源をのぞいては。

 

 とにかく、私は、私の信じる全ての正しさを遂行する権利がある。その正しさは主観的であり、時に客観的な痛みを取り込んで変容していく。客観的な痛みを無視した正しさは独善的であり、多様性はこれを認めてはならない。多様性という言葉はこのことと矛盾しない。多様性という言葉に曖昧で複数の定義が存在できないように、多様性は守るべきただ一つのことをのぞいてその多様性を失いながら多様性を保護していく。多様性が保護するのはそれぞれが持っている文化をもとにした考えである。

 

 文化の英訳であるcultureがcultivateを語源として持っていることはよく知られていることである。他者の開墾した土地は他者に権利がある。墾田永年私財法とかを想像してもらえれば雑な理解は可能だろう。それでいい。私もそれ以上は知らない。とにかく、多様性が保護するのは法にのっとって開墾された土地であり、他者が他者の土地を侵害することはそれによって強大に拒まれる。

 

くたばれ(フマキラーのCM)

 明日の天気はところにより曇り、あなたの気分次第で傘の所属は家、もしくはあなたになります。それいがいは特に言論の自由を声高に宣言することは必要のない一日になることでしょう。あなたが

 

ホワイトボードに映る自分の姿に心臓が止まりそうになりました。

 

あなたが他者存在である限り、あなたは尊重されます。ただし、あなたが他者存在であることを捨てて何者かと同一のものに変容しようとする場合はこの限りではない。同一個体に二つ以上の意思は宿らせてはいけない。墾田永年私財法以外にも法律はある。ラッキーアイテムは自我。失わないようにしてくださいね。失ってしまった場合の損失は片手では数えきれないものになります。くれぐれも落ちているピザに気を取られないように。