日記

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8月1日 日記

衆人環視のなか大声で弱音を吐き出す力があるくせに、当人の前では縮こまって、勘違い甚だしいクソデカ感情に押しつぶされているのだからもう手のつけようがない。勘違いの感情にぐしゃっとされているのは愚か者の象徴だろうか?助けを求めて伸ばされた手は誰からも無視される。生きているのか死んでいるのかわからない腕など怖いに決まっている。名指ししなければ誰も助けてくれないことに気づけないままこの年まで成長してしまった。そうして優しい誰かが引っ張ってくれることをずっと待ち続けている。そばを通る人間はもう誰もいないのに。

 

そのクソデカ感情は錯覚だ。恋愛感情だと思い込んでいるようだけれど、優しさの概念に心地よさを感じているだけだ。当人とは一切の関係がない。人間そのものと切り離された概念に気持ちよくなっているだけだ。優しくしさえすれば着せ替え人形を好きにさせることもできるだろう。

何とか言ったらどうだ。

それは違うと言われてもお前には前科が多すぎる。神社にでも行ってお祓いをしてきてもらったらどうだろう。優しくしてくれた巫女さんのことを好きになるんだろうな。

7月31日 日記

いつも通りの日常が終わって、非日常となり、非日常が終わり、いつも通りの日常になったから通ったことのない道を帰った。

夕陽に照らされた住宅街には、人気がない。公園から聞こえてくるはずの子供の声が聞こえない。これまでならけたたましく騒いでいたはずの蝉の声がしない。唯一聞こえてきた音は、ビニールプールではしゃぐ子供の声だった。

 

室外機が吐き出すどんよりとした空気が街をどんどん熱くする。そういえばまだ蚊に刺されていない。住宅街だから室外機はなおのこと多い。暑すぎると蚊も活動しないんだっけか。室外機の目玉がこちらをじっと見ている。蚊が動かない街を人間は動き続けている。どの室外機も目は全て左寄りだ。ということは蝉の声がしないのも暑すぎるからだろうか?室外機から見れば右寄りなのだろうけれど、室外機が意思を持つことは決してないのだからどうでもいい。蝉にとって夏の風物詩はだるそうに歩き回る人間なのかもしれないな。せーので室外機を止めたら気温は下がるのだろうか?蝉は意思を持っているのだろうか?

 

どうでもいいか。

 

バスの窓ガラスのスモーク加工が誰かを日差しから守る。広げられた折り畳み傘は、誰かを日差しから守ってまた畳まれる。誰かを日差しから守った日陰は、朝には誰も守ることのできない日向となる。日向の存在しない真夜中は常に誰をも守り続ける。真夜中は誰からも何も奪わない。私たちは何も奪われていないから。

7月21日 日記

電車内での電話が不快なのは、片一方の会話しか聞こえないためらしい。会話を理解するための情報が与えられず、もどかしい感じがあるから。指示語が明らかにならない会話は、確かに歯がゆい感じがするだろう。

 

思えばこの日記も「それ」を中心として指示語を多用している節がある。別に自分の中で理解できていればいいかなと思ってしまっているからですね。結局のところ一番面白い文章って自分の書いた文章のような気がしているので、自分のために日記を書くのが一番いいんじゃないかなとは思う。日記なんてそんなもんで、だから、気分がすぐれなければ書かなくてもいい。もし書かないことが自己嫌悪に繋がるのであれば書くべきではあるけれど、自分はそんなことはないので、ここしばらくはかなり休んでいた。

 

指示語の多用は非常に気持ちがいい。あらゆる文脈を自分の中だけに求めることができる。自分を利用して自分の文章を理解している感じがある。

 

やめちまえそんな日記。

7月20日 日記

新幹線はとてつもなく速い。それだけで褒められるくらいには速い。それじゃあ鈍行列車はどうだろうか?各駅停車でスピードもそれほどでない。貶されればいいんだろうか?鈍行列車にもいいところがある。そして、新幹線にも悪いところがある。

 

新幹線は街の近くを走る。街の近くの少し高いところを走るから、街の形がよく見える。新幹線の乗客を対象にした看板の存在に気づくし、公園の広さになんかも気づく。立ち並ぶビルは灰色だけではないってことにも。

鈍行列車は

もっと街を外れたところを走る。毛細血管のように日本の隅々まで張り巡らされた線路をゆっくり走り抜ける。だから、鈍行列車は落ち着いたゆっくりとした空気を湛える。その空気の中で本を読めばいい。音楽を聞けばいい。飽きたら窓を通して外を眺めればいい。。知らない山、知らない川、知らない廃屋が、あなたを許してくれるだろう。乗り継ぎの二十分間で、ホームを隅々まで探索しよう。いつの時代かわからない張り紙を見つけよう。改札から見える知らない景色を喜ぼう。

 

じき夏が深くなる。私たちは永遠に青春18切符を使う権利がある。

7月16日 日記

すげー角度で飛んでったんだと思う。そう思わないと理解できない位置に便器が落ちている。正しく言おう、そう思わないと理解できない位置に和式便座が落ちている。

確かに和式便座は乗り物っぽい見た目をしているから、外に置いてあっても違和感はない。あるというお前は和式便座のことを何もわかっていない。二度と使うな。あなたが和式便座を憎むように、和式便座もあなたを憎んでいる。断言しよう。和式便座はウォシュレットを大いに憎んでいる。ウォシュレットがどう思っているかは知らない。「え〜、お前が言ってこいよ〜、お前が気になってんだからお前が聞いてこいよ〜」。和式便座大好きキッズ。いるのならば賞金を百万くらいかけても連れてきたい逸材だ。いないのならば日本の未来はもうない。お先真っ暗。極夜の日本。素晴らしい夜を始めようではないか〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!よ〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!!!!!!

7月15日 日記

Hey John Doe.

お前のことだ。お前は名前を持っているがゆえに、名無しとして生きている。打ち捨てられた幾つものハンドルネームたちが、恨めしくお前を睨め付けている。操舵輪のようにハンドルネームは取って代わられる。その日の気分によってコロコロ変わる。何も私はそれ批判しようというのではない。ハンドルネームたちに意思はなく、睨め付けることももはや無い。

一番最初のハンドルネームを思い出してみることだ。あなたは誰であっただろうか。自分以外の誰かとして初めて動き始めたはずだ。記憶にあるだろうか?私はない。記憶はもはや打ち捨てられている。記憶はもはやあなたのことを記憶していない。記憶が記憶しなければ、誰が記憶を記憶するだろうか。あなただ。あなたが記憶を忘れて生きていくことは許されない。許されるのならば、それは人類の記憶の喪失といえる。これは論理ではない。ならば感情か?それも違う。感情は記憶されるものであり、記憶は感情を持ってはいけない。これは論理だ。

あなたにとっての論理は私にとっての論理にはなり得ない。なるのならば、私はすでにこの世にいないということだ。明確に私の生死を定義することができる。証明は各自家に帰ってからやってみるように。今日の授業はこれでおしまい。良い週末を。記憶に固執しすぎて偏頭痛に悩まされないように。

7月11日 日記

何枚でもすれる版画が価値を持つのは、する枚数が限られているから。そこではキリ番もゾロ目も価値を持たない。版画は貨幣と違う価値の持ち方をする。

 

基本的に私は、caption、付加情報というものを嫌う。No Caption Needed. に顕されるように、そのものがそのものであれば、それはそれでしかない美しさがあると私は思う。むしろ付与される説明文は、そのものの本質的な美しさを隠す、曖昧にする、邪魔をする。「〜が本気を出してきた」こんなバズツイートを見る度に、私は強烈な嫌悪感を覚える。

 

それにも関わらず、私は情報を付与した。それは、同じ価値を共有すべきだと私が思ったから。それそのものだけでは伝えきれない価値をcaptionが持ってしまっていたから。節目という考え方に私が囚われすぎているからとも言える。

 

そもそも、私は情報が意味を持たせると意識をしてそれを保存した。そのためにわざわざ私は夜に歩いた。それだけのためとも言える。あと二年もせずに訪れる、また別の節目でも私は同じことをするのだろうか。

 

神崎士郎役の俳優のように、私はそれを何年間も隠し続けていくはずだった。そう決めていた。そうすることが意味を持つと私は思い込んでいたから。でも、どうやらそれ以外でもいいらしかった。意味が、ある一定の意味を保ちながら、べつのいみにへんようした。イーブイの進化みたいだな。とにかく、私が本来望んでいた意味ではないものの、後悔のない意味へと変容したことは、ひどく喜ばしいことのようにおもわれる。

 

私は二度とそれを増やすことは無いだろうし、増える場合、それはマイナス1だと思う。枚数は二枚以下を保ち続ける。