日記

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7月11日 日記

何枚でもすれる版画が価値を持つのは、する枚数が限られているから。そこではキリ番もゾロ目も価値を持たない。版画は貨幣と違う価値の持ち方をする。

 

基本的に私は、caption、付加情報というものを嫌う。No Caption Needed. に顕されるように、そのものがそのものであれば、それはそれでしかない美しさがあると私は思う。むしろ付与される説明文は、そのものの本質的な美しさを隠す、曖昧にする、邪魔をする。「〜が本気を出してきた」こんなバズツイートを見る度に、私は強烈な嫌悪感を覚える。

 

それにも関わらず、私は情報を付与した。それは、同じ価値を共有すべきだと私が思ったから。それそのものだけでは伝えきれない価値をcaptionが持ってしまっていたから。節目という考え方に私が囚われすぎているからとも言える。

 

そもそも、私は情報が意味を持たせると意識をしてそれを保存した。そのためにわざわざ私は夜に歩いた。それだけのためとも言える。あと二年もせずに訪れる、また別の節目でも私は同じことをするのだろうか。

 

神崎士郎役の俳優のように、私はそれを何年間も隠し続けていくはずだった。そう決めていた。そうすることが意味を持つと私は思い込んでいたから。でも、どうやらそれ以外でもいいらしかった。意味が、ある一定の意味を保ちながら、べつのいみにへんようした。イーブイの進化みたいだな。とにかく、私が本来望んでいた意味ではないものの、後悔のない意味へと変容したことは、ひどく喜ばしいことのようにおもわれる。

 

私は二度とそれを増やすことは無いだろうし、増える場合、それはマイナス1だと思う。枚数は二枚以下を保ち続ける。