日記

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0506

また会ったときに恥ずかしいからね。

なぜあっさり別れるのかと聞かれたフリーレンはそう答えた。

 

人との別れ方というものは自分の中で一つ大きな課題となっている。小学校のときは約束なんてしなくても次の日に学校に行けばまた会えたし、放課後には「また後で」なんて言って公園で遊んでいた。中高では放課後に遊ぶことは少なくなったが、それでも次の日に学校に行けば会うことができた。「また」があることを疑ったことなどなかったのだ。高校を卒業してからは「また明日」がめっきりと減り、ーーコロナ禍だったというのも一つの要因であるーーそもそも「また」があるかどうかを考えるようになった。小中高では別れの言葉なんて気にしたことはなかったのに、それからは「またね」を言うことに躊躇するようになってしまった。自分の中で「またね」は約束である。約束は守らなくてはならないのだから、「またね」と言った相手にはどうにかしてどこかで会わなくてはいけないと思う。だから、次会えるかどうかわからない相手には「じゃあね」を使っている。とても打算的だと思う。

 

すべての別れは今生の別れとなる可能性を秘めている。だから、何度も振り返ったりとか、一本見送ったりとか、そういう名残惜しさを伴った別れとなるのは仕方ないと思う。でも自分はあっさりとした別れを選びたいと思う。「じゃあね」とだけ言ってそれぞれの道を歩き始める。その方が多分いい。また会ったときに恥ずかしいしと思うし、何より綺麗だと思う。フリーレンも同じような淡白な別れ方をするのだが、彼女は「じゃあね」ではなく、「またね」を使っている。「またね」を約束ではなく、どこかでまた会えたらいいねくらいに捉えているのだと思う。そう考えると「またね」も悪くない気がしてくるし、希望のようにも感じられる。

考えてみれば何も「またね」と「じゃあね」だけではないのだ。昨日のそいつは「気ぃつけてな」って言ってたし。これからは「気ぃつけてな」も使っていきたい。