日記

日記

0502

「こういう奴がいて(うんぬんかんぬん)でだるい」という話に必要なのは共感であって、「じゃあそいつと絡まなければいい」という解決策の顔をした暴力ではない。共感しろといわれてただただ相槌を打つのはつまらないというのもそうであるからそちら側の意見もわからないでもない。ただ、これは努力して身につけなくてはいけないものだと感じている。要は使い分けの仕方を学べという話に落ち着くのだが、使い分けるためにまずは忍耐力というものを身につけなければいけないため、一歩づつ必要なステップを踏み外さないように地道に進むほかない。

 

目標を立てるにあたって、ゴールを定めるのは容易いが、どのルートで何を身につければいいかを身につけるのはそれよりもいくらか困難になる。山頂は晴れていれば見えるが、山道は晴れていようが全くわからない。しかし、山道は実際に通って見ないとわからないものの、装備すべきものは、想像を働かせたり、先人に尋ねるなどすればある程度容易に理解できる。すべき用意はするべきだが、実際にやって見ないとわからないことは登ってから考えるしかない。道中で死んだら死んだで仕方がない。

 

こんなこと先人が何かしら本にしたり語り継いできたりしていないわけなどないし、自分が辿り着ける思考など誰にでも辿り着けるものでしかないので、改めて言葉にして公開する意味などないのかもしれない。ただ、これは自分の思考の整理という形を保っているため、居酒屋の説教と同一に考えることはできないはずである。そう思いたい。

 

説教の何がダメかというと、語っている内容を相手は一つもわかっていないという前提のもと喋り散らかしている点である。相手だって馬鹿じゃない。二十何年も生きていれば大体のことは肌感覚でなんとなく理解しているはずである。それなのにその人生を無視する形で公開オナニーなんてされたら吐き気がする。相手が吐き気を催している中、なおも喋り続けることを暴力と呼ばずしてなんと呼ぼうか。恥を知れ。